北京生活情報

2007年02月25日

『それでもボクはやってない』

刑法とは何か、あるいは刑事裁判とは何か、ということを考える時、大切な視点がある。



刑法であれば、

「誰に対しての命令か」



刑事裁判であれば、

「誰に対して、行われるものか」



考えてみて欲しい。





さて、久々に映画が見たくなって、「墨攻」「不都合な真実」「硫黄島からの手紙」など、見ようと思っていたものが沢山ある中で、標題の映画を選んだのは、ヤフーのレビューを見ていたら面白そうだったからなのだが、痴漢の冤罪というものは、以前もテレビで特集をやっていたが大変悲惨なものであるし、自分が巻き込まれてもおかしくないということもあり、関心があるところだった。また、いよいよ裁判員制度が導入されることから、こういう裁判ものを見ておくのも良いかという理由。



内容は非常に良かった。裁判官と検察と弁護士の関係や、裁判のあり方、問題点などが浮き彫りにされている。軽い映画ではなく、非常に重いテーマを扱っているのだが、悲惨な割に何故か暗さがないので、見た後も考えさせられることはあっても悲しくなることはない。





で、冒頭の問いである。映画を見て考えて頂ければ幸いではあるが、

実は冒頭の問いは僕が大学入試を受ける直前に、小室直樹博士の「痛快!憲法学」を読んで

知ったことである。



刑法が「誰に対しての命令か」というのは、つまり「刑法を違反することが出来るのは誰か」と考えてみれば分かりやすい。

例えば傷害罪を考えてみる。



刑法第204条 「人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」



さて、刑法第204条に違反することができるのは、誰であろうか。



考えたら分かることだが、それは犯罪者に成りうる我々一般市民全体などでは、全くない。



「人の身体を傷害してはいけない」ともし書いてあれば、一般市民全体で正解とも言えるが、

刑法第204条の場合は、

「人の身体を傷害した者を、15年を超えた懲役に処する」ことや、

「人の身体を傷害した者を、100万円の罰金に処する」ことが違反になるわけであるから、



要するに刑法に違反出来るのは「裁判官」だけなのだ。



「なぜ人を傷つけてはいけないの?」「なぜ人を殺してはいけないの?」と子供に聞かれたら、

「法律に書いてあるからよ」と答える大人がもしいれば、それは間違いだ。



間接的に人を傷つけたり殺したりすれば不利益があるから、その行為が思いとどまるだけであって、刑法はそれ以上のものではない。





続いて、「刑事裁判は誰を裁くものか」であるが、これは映画の最後に出てくる。



「容疑者」を裁くのではない。



裁くのは、「検察」である。



近代刑法の原則は、「疑わしきは被告人の利益に」「疑わしきは罰せず」である。

つまり、10人の犯罪者を逃したとしても、1人の無実の者を有罪にするよりはマシ、と考える。

「検察」は、人を有罪にしようとする「国家権力」であるから、出来る限り国家権力からの自由を確保しようとする近代法においては、上記のような理解が生まれた(この辺は、自信がないので理解に誤りがあれば誰か指摘ください。)。





検察が求刑を行い、裁判官は弁護士や被告の意見を参考にして、検察の調査や理論に誤りがないか、を調べるのが刑事裁判なのである。

真実が何であったか、真犯人が誰であったか、ということはいわば「蚊帳の外」であるから、

極端に言えば、どんなに犯人である確立が高かろうと、検察が取り調べの段階で違法な手続きを行えば、それは無罪となる可能性があるということだ。



それは被害者意識からしたら許せないものであるだろうが、一人の凶悪殺人犯よりも、検察という国家権力=リバイアサンの方がはるかに恐ろしいということである。取調べがルールを守らなくても良いということになれば、国家権力の暴走が始まるのである。



実際は、裁判官が「無罪判決」を書くということは非常に難しく、その辺りの事情は映画に現れているので是非見て欲しいところだ。非常に難しいし、現実と理論をどう考えるかという面白い論点でもあるが、そういったことを考えさせられるという意味で、大変良い映画であったと思うのだ。



国家権力と個人、司法の問題点、そんな壮大なことを考えながら、とりあえず明日からは電車に後ろ向きに乗ろう。




posted by JPAK at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月10日

『ありがとう』

この映画の製作会社であるランブルフィッシュという会社は、僕も関わっている担当企業なのだが、その関係で大量のチケットが社内でばら撒かれたので、久々に一人で映画館に行ってみた。



阪神大震災を描いたこの映画。もう、12年も前のこと。1月17日午前5時46分、関西が揺れた。

うちは被害は庭の灯篭が倒れてきて、寝室のガラスが見事に粉々になったこと。

ちょうどその日5歳の誕生日であった妹は、もしベットで反対向に寝ていたら顔中ガラスで切り傷だらけになるところだった。



朝テレビをつけたら、高速道路が真っ二つになって、そこらで火災が起こって…という衝撃的な映像であった。

学校に行ったら本棚の本が全部落ちていたり、机がぐちゃぐちゃになっていたり、被害自体はたいしたことないが、なかなかビックリしたものだ。



映画を見て、天災に遭い不条理に絶えながらも必死で生きていく人々の姿に、心討たれた。

ぽろぽろと涙がこぼれてしまった。



改めて、防災、命を守ること。

思わずにはいられなかった。
posted by JPAK at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月26日

『THE GREAT DICTATOR』

チャールズ・チャップリン 1940年



かの有名なチャップリンの代表作。皮肉にも、ヒトラーは、チャップリンのファンだったらしい。

ヒトラーを風刺し、民主主義を取り戻すための演説と、チャップリンならではのコミカルな一つ一つの場面が、この作品を素晴らしいものにしている。



チャップリンが天才であり、かつ現代においてもその意義が忘れられないのは、センスや演技力だけでなく、やはりこうした「人間としての尊厳」を守ろうとした「勇気」の故であろう。

僕は、仮にこうした「支配」の下におかれた時、声を上げることが出来るであろうか。

チャップリンにとっての「映画」のように、効果的に抵抗するためのツールを持ち合わせているであろうか。どちらにしても、断言出来る自信はないが、チャップリンの勇気、力は忘れないでおこうと思う。





この映画がどこまで現実とリンクしているのかは分からないのだが、

ヒトラー(ヒンケル)とムッソリーニ(ナパロニ)の関係や、

ヒトラーの側近ゲッペルス(ガービッシュ?)の態度など、

ヒトラーが実は孤独な独裁者だったこと、臆病な一面があったことが垣間見れる。



ラストの演説は、有名過ぎるほど有名なのだが、

世界史の授業で見たり、

戦争について考える授業で見たり、

あるいは英語の授業でも良いが、

良い教育の題材となるのではなかろうか。





「独裁を排し自由の為に戦え! 神の王国は人間の中にある。全ての人間の中に・・・

諸君は幸福を生み出す力を持っている。人生は美しく自由でありすばらしいものだ。

諸君の力を民主主義の為に集結しよう!

よき世界の為に戦おう!」




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2006年10月28日

素晴らしき哉、人生!

「It's a Wonderful Life」 1946 アメリカ



映画を見終わってから、「スミス都に行く」と同じジェームズ・スチュアートが演じていたのだ、ということを知り、改めてこの人は素晴らしい役者だと思った。監督もフランク・キャプラ。スミスと同じ。

(ちなみに僕は昔から映画を滅多に見ないし、俳優や監督の名前もほとんど知らないので、驚いたりしているが、映画通の人にとっては当たり前の事実なのであろう。)



僕は人生に希望しかないが、それにしても

「人生ってやつは素晴らしいなあ…」と涙せずにはいられなかった。

こんなに泣いた映画は初めてだ。

もしかして、今年初めて泣いたんじゃなかろうか。



「感受性」というものは、子供の頃の方が優れていて、大人になるに連れて失われていくように思っていたが、明らかに「映画や小説に感動する力」は歳を経るごとに増していく気がする。



「男は人生で三度しか泣いてはいけない」なんて、泣き虫だった自分は子供の頃に聞かされて、そんなに強い男になりたいなあと思っていたが、最近は、たまには泣く方が健康的だと思う。

毎日何かで泣いているような男は嫌だけど、

感動して、悔しくて、悲しくて、嬉しくて、

感情が高まって涙が出るってのはすごく気持ちが良い。



泣かないような強い男よりも、感情をありのままに受け入れて、誰かのために、誰かのことを祈って泣くことが出来る、優しい男になりたいと思うようになったのは、いつからだったかな。



「弱い奴は泣くのが恥ずかしい。強い奴は泣けないのが哀しい」


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2006年08月09日

『ゲド戦記』

話題の作品なので、見てきた。

まだ見ていない人もいるかと思うので、ストーリーは明かさないけど、テーマは「命」についてだった。

これまでのジブリ作品のテーマとは、少し違うような感じ。



作品としては、面白かった。だけど、響かなかった。

僕は、あまのじゃくなのか、ある特定のメッセージを込められた映画を見てもそれを素直に受けとめることが出来ない。

すなわち、感動が出来ないということ。



『ローレライ』とか、小説で読んだ時は号泣したが、それ以外に今までの人生で小説や映画で泣いたことはほとんどない。



「どうしていずれ死ぬのに生きていかなきゃいけないの」

「死を否定することは生を否定すること」



こういう話が作中に何回か出てくるが、僕にとっては

池田晶子氏の本を一冊読んでいる方が響くものがある。



「なぜ生きるか」ではなく「生きるとは何か」

「死にたくない」ではなく「死ぬとは何か」



そっちの方が知りたいし、それが分かればもう後は勝手に分かってくるような気がするからだ。



一方、昨日夢を見た。

ガンで、余命あと僅かと宣告される夢。

コテコテ過ぎて、今まで見たこともない夢だが、何故か見てしまった。

で、怖かった。どうしようもなく怖かった。

どうして怖いのだろう。

何が怖いのだろう。



朝、目覚めて安心した。



何に安心したんだろう。



「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」



孔子は最期に何を想ったんだろう。






posted by JPAK at 22:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする